ブランド対談 #20

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ブランド対談 #20

[ブランド対談]時代に挑み伝統を守り続ける有田焼・色鍋島

色鍋島は、江戸時代、佐賀・鍋島藩の御用窯として、将軍家への献上品をはじめ、公家・諸大名らへの贈答品等に用いられてきた最高級の色絵磁器です。赤絵の調合・技術については一子相伝の秘法として伝えられ、その卓越した技術は、国の重要無形文化財保持団体の認定を受けています。

その色鍋島の御用赤絵屋として、その伝統を代々今日まで継承してきたのが今泉今右衛門家。当代・十四代今右衛門氏は、「墨はじき」という伝統の白抜き技法を主に、日本伝統工芸展で工芸会会長賞を受賞されたのをはじめさまざまな賞を受賞され、2009年に紫綬褒章授章、2014年に陶芸家としては史上最年少の51歳で国の重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定されました。

また、2014年に有田陶芸協会会長、2018年に佐賀県陶芸協会会長にもご就任され、陶芸界の普及発展にもご尽力されている十四代を訪問。370年の伝統を継承された経緯から昨今の陶芸界について、さらにコロナ禍で変わるこれからについてお話を伺いました。

今回は、甲南大学経営学部 西村順二教授、佐賀大学芸術地域デザイン学部 山口夕妃子教授、長崎県立大学経済学部 大田謙一郎准教授のお三方にもご同行いただきました。
十四代 今泉今右衛門氏
1962年(昭和37年)佐賀県有田町生まれ。武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科(金工専攻)卒業。京都・鈴木治先生に2年間師事した後、父の十三代今右衛門の許、家業に従事。2002年に十四代今泉今右衛門を襲名。江戸時代から鍋島で使われている「墨はじき」という白抜き技法をさらに発展させ「雪花(せっか)墨はじき」という技法を生み出す。2009年に紫綬褒章授章、2014年に国の重要無形文化財「色絵磁器」の保持者(人間国宝)に認定される。2014年 有田陶芸協会会長、2018年 佐賀県陶芸協会会長、2020年日本工芸会副理事長に就任。
数多くの受賞歴についてはこちら
墨はじきについて

今右衛門窯
〒844-0006 佐賀県西松浦郡有田町赤絵町2-1-15
https://www.imaemon.co.jp/

今右衛門 東京店 〒107-0062 東京都港区南青山 2-6-5
月~金:9:00~18:00/土:9:00~16:00

1業種400年の町 有田
 
陶山: 今泉先生は2014年に人間国宝の認定を受けられた後、同年有田陶芸協会会長、2018年に佐賀県陶芸協会会長にもご就任されています。そのお立場から見て、昨今の有田焼またはそれをとりまく環境についてどのようにとらえられていますか?
今泉氏: このコロナ禍は佐賀・有田だけでなく陶芸界全体に大きな影響を及ぼしていますが、コロナ以前にもさまざまな問題はあります。日本のものづくりの中で陶芸は、他の漆や金工等の分野と比べると、現代の人々に親しみのある工芸ではありますからまだ恵まれているとは思います。ただそれだけに規模も大きいので厳しいことは事実ですね。
陶山: 陶芸界では近年、全国各地でたくさんの若い陶芸家や作家が増えているという話しをよく聞きますが。
今泉氏: その「陶芸家」という仕事としての名称は、有田では昭和30年代くらいまでは無かったと思うんです。
陶山: そうなんですか!
今泉氏: いわゆる製陶業で、有田でいうところの「窯焚きさん」という仕事はあるのですが、「陶芸家」「作家」という職業は、昭和30年代以前はまだ無かったと思います。

もともと日本の陶芸や漆・染織や金工などの手工業は、江戸時代までは各藩によって奨励され、ずっと守り続けられてきました。それが明治維新になって藩の保護が無くなり、それと同時に西洋文化が入ってくる。そこで一気に日本の手工業全てが衰退の一途をたどってしまったわけです。。

このままでは日本の手工業の伝統や文化が無くなってしまうんじゃないかということで、明治22年に岡倉天心らが東京美術学校に美術工芸科というのを作るのですが、なかなかその大きな流れは止められない。それが戦後になって昭和24年、法隆寺の金堂焼失という大きな事故を契機に、日本の文化財を保護しようという流れが生まれ、翌昭和25年に文化財保護法ができました。

このとき、仏像や障壁画など有形のものを文化財として保護するだけでなく、工芸の手技や芸能の技など、無形のものも文化財として保護するという重要無形文化財保護法が生まれています。これは世界の他の国には無い画期的な考え方で、この国のおもしろいところだなと思いますね。
その文化財保護法は、昭和25年にできましたが、昭和29年に作り直されたんですね。何が変わったかというと、最初は伝統の技術を残していくことが重要でしたが、後にその技術をもって芸術的なものを生み出したり、現代の暮らしの中に活かすという考え方に改正されたんです。

ある評論家の方が「今の人は信じられないかもしれないけれど、昭和30年くらいまでは、『うつし』つまり昔の技術を忠実に再現できることがいい陶芸家だと言われていた。それが昭和30年を境として、その技術をもって芸術的なものを生み出すのがいいと言われるように変わってきた」と仰っていましたが、その時期がちょうど文化財保護法の改正と重なり、世の中の流れが変わっていく。その中で「陶芸家」「作家」という仕事が生まれてきたんじゃないかと思います。
陶山: 今右衛門のホームページにも「伝統とはその時代を担う者が一生懸命取り組んで見つけるもの」と記載されていますね。時代の変化によるライフスタイルの変化やトレンドの移り変わりに合わせて、クリエイションに重きを置くようになってきたと。
今泉氏: 有田では100軒の窯元があると100通りの方向性があると言われますが、それはどの時代も同じで、それぞれ違う方向性を持って常に時代に挑んできました。その多様性が有田の姿であって、400年ずっと1つの町が1つの業種で流々と続いてきた所以ではないかと思います。

今右衛門窯 十四代までの軌跡
 
陶山: その中で370年の歴史と伝統をもつ今右衛門窯にとって、「色鍋島」は特徴の1つであると思いますが、十二代までは伝統を守り継承するというスタイルでしたが、十三代のお父様の頃くらいから変化してこられたんでしょうか。
今泉氏: 九代までは江戸時代ですから、藩の保護の元で仕事をしてきましたが、明治になると藩の保護も無くなり、御用赤絵師の制度も無くなります。そこで十代は一貫した生産に乗り出し本窯を築いたんですね。ここでいろんな様式や方向に手を出しても良かったのですが、そこで色鍋島を基本とする磁器の製造に踏み切ったんです。なぜ十代がそこに目を付けたのか私にも分からないのですが、きちんとまじめに手の込んだものを創っていこうとする、この家の家風というものがあるのかなと思います。

十代、十一代、十二代と、色鍋島の技術の基礎を作っていくんですが、十三代 父の時代になると、文化財保護法という国の方向性が大きく変わる中で、昭和30年代からオリジナルものを創り出そうという流れになっていく。父はやはり若い時に東京の美術学校に行っていますから、いろんな影響を受けてその考えで創っていくんですね。なので父がというより、やはり時代の大きな変化というものが根本にあったと思います。
陶山: 先生は東京で武蔵野美術大学に学ばれた後、京都の陶芸家、鈴木治先生に師事されましたが、いつ頃から家業を継承するご決心をされたのですか。
今泉氏: 美術大学は工芸工業デザイン学科でしたが、先輩方が金工で現代彫刻をたくさん作っていた時代でもあって、それに憧れて金工の方に進みました。ずっと現代彫刻を作っていましたから、卒業するときもこのまま現代美術の方向に行こうか、それとも有田に帰って仕事を手伝うか、ちょっと考えたときはあるんです。

当時の私には、昔の手仕事を次の時代へ残すことに意味があるのか分かりませんでした。ただ途絶えてしまうのはもったいないなというような気もして。当時の現代美術はコンセプトありきの考え方、「コンセプチュアルアート」といわれていましたから、その考え方を持って生きていけば現代美術をすることになるだろうと勝手に決め、それで帰る決心をしたんです。

卒業後は、販売の勉強として福岡の㈱ニックという会社に3年間勤めをしまして、それからものづくりの修行ということで、京都の鈴木治先生というオブジェを作られている先生のところに2年ほどお世話になり、その後有田に帰ってきました。

帰ってからも兄がおりましたから、自分自身は継ぐつもりはありませんでしたし、どちらかというと現代陶芸をしながら、家の手伝いをするという自分の中のビジョンがありました。ところが、あるお正月に父が、次の代をどっちが継ぐか、おまえたち2人で1年かけて考えて決めろと言われたんです。

そして1年後、兄が作る方を弟に任せるということで。まあ自分も15年、20年すれば一人前になれるかなというくらいの気持ちで継ぐ決心をして、それから日本伝統工芸展への出品を始めました。当時は父も元気でしたし、こんな早く自分が襲名するとは思っていませんでした。
陶山: 十四代を襲名されるにあたって、十三代から何か心構えみたいなものは伝授されたのですか?
今泉氏: 父は常に「自分で決めろ」という人でしたので、心構えやこうしろということはほとんど言いませんでした。ただ人には「自分が受継ぐよりも受継がせるほうがどれだけ難しいことか」とよく言っていたそうです。

つまり自分が受継ぐのは自分が頑張ればいいわけですが、受継がせるには、次の人間が聞く耳をもたないといくら言っても無駄ですし、自分で決心したことしかできませんし、それで自分で決めろとしか言わなかったんだと思います。

実際のところ、襲名したあとに「これはこんな大切なことだったんだ」と気が付くことも多いんです。よく「お父様が生きておられたら嬉しいでしょうね」と言われますが、父が生きていたらこんなに一生懸命していないと(笑)。この立場になったからこそ気付けただけだと思います。
陶山: 今泉先生は、「墨はじき」という技法をさらに発展させて新たな技法を生み出しておられます。お父様とは違った何か新しいものを作るというご意思は最初からありましたか?
今泉氏: やはりもともと現代彫刻をしていましたし、すべて価値観を斜めからしか見ない性格でもありますので(笑)、今までにないものを作りたいという思いはありましたね。それで、墨はじきというのがおもしろそうだなと。

美大時代に金工をしていて、金属を磨いてそれを錆びさせてという素材感にすごく思い入れがありましたから、磁器でも釉薬の覆っていない素材をどう表現するか、墨はじきの絵の具を無釉で焼き付けるとどうなるか等、いろいろ試験して、ああこれはきれいかも、これはいいかもしれないとか、仕事しながら見つけていったんです。
陶山: 何かいいアイデアが突然でてくるとか、新しい良い作品がポッと生まれるんじゃなくて、試行錯誤の中から昇華してくるような形で作り出されるんですね。
今泉氏: 若い頃は、窯から焚き上がってきたものを削って磨いてと、まるで説き伏せるような感じで作っていましたが、襲名した後は、薪をくべて作る自然の炎やそこから自然に出てくる世界をどう受け入れるか、といった考え方に変わってきましたね。

京都の鈴木治先生のところにいた頃、たまに小さな模型を作って、これどうですかと先生に持っていくと、「今泉くんなあ、我々が目指しているのは陶芸なんやで」と言われことがありました。先生はオブジェのようなものを自分のイメージで作られていると思っていたものですから、その先生に「陶芸なんやで」と言われた意味が、当時の私には全く分からなかったんです。

その後有田に帰ってきて、鈴木先生が亡くなられた後あたりでしょうか。陶芸というものは、収縮するし密閉になったら破裂する。ですから、空気をどう逃すかまたは重力に対してどうだという、そういう自然の特徴を受け入れた上で作るということなんだと。先生の言葉はこういうことだったんだと、京都から帰ってきて10年以上経ってやっと分かったという感じです。
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色絵薄墨墨はじき雪文鉢/径46.0cm 高15.6cm/2011年(今右衛門窯提供)

日本のものづくりの矜持
 
陶山: 土と火、自然との共同制作なんですね。20年くらい前に信楽に伺った時に、ある先生が、ざらざらしているけどあたたかいという「土の味」の素朴さをどう活かすかということを言われました。やはり素材に対するこだわりを強くもっていらっしゃいました。
今泉氏: やはり陶芸というものは自然の持つ素材とどう向き合えるか。その中心は自分ではなくて素材との相中にあるような、この感覚が日本のものづくりの大切なところだと思います。

九州陶磁文化館に有田焼を大量に寄贈された柴田明彦さんという方から、「今からの時代は世界と繋がってグローバルになっていく。その時ヨーロッパからは日本も中国も韓国も一緒に見られてしまう。だからその文化の違いは何であるか、きちんと説明できないとだめなんだよ」と仰ったんですね。それが自分の中でずっと大きなテーマになっていました。

韓国との違いは分からないところがまだありますが、中国との違いについては分かるような気がします。いろんな方と話をしてみて思うのは、やはり日本の国は自然と共存しないと生きていけない。それは地理的な要因が大きいのですが、八百万の神(やおよろずのかみ)というように、自然と共存する中でのものごとの考え方、文化があるんですね。

対して中国の場合、自然といっても、海も川も山もとんでもなく大きいので、共存していては生きていけない。さらにいろんな民族が入り乱れているので、「超自然」という感覚になる。日本と中国の考え方のスタンスは真逆かもしれない。中国はむしろヨーロッパに近いものがあるんじゃないかと。自然と共存するという日本の考え方はどちらかというと東南アジアと近いかもしれません。
陶山: ドイツのマイセンとか、日本の有田の影響を受けたヨーロッパの陶磁器もありますが、やはり何か違いますね。
今泉氏: ジャパニズムというのは一つの流行でもありましたし、ヨーロッパに最初輸出された焼物は、もともと中国の景徳鎮が担っていたんです。途中、中国が明から清に変わる時で、国内が戦争状態で輸出できなかった代わりに有田焼を持っていったというだけで、有田の焼物が市場を開拓したというのとは違う。ですから、本当に日本の文化が受け入れられて伝わっていたかというとちょっと微妙なところがあると思いますね。
陶山: 陶磁器は美術品でもありますが、日本には「用の美」という考え方もありますよね。
今泉氏: そうなんです。「使う」という考え方が日本のものづくりの大切なところで、それは日本の屏風を見ても、純粋芸術として作られたものじゃなくて、風除けであったり間仕切りであったり、調度品や暮らしの中の道具として作られてきました。それを芸術として賞美してきた国なんですね。

我々が所属している日本工芸会でも、「我々はものづくりとして何を大切にしなければいけないか」という問いかけに、やはりこの会は「使う」ということを大切にしなければいけないのではないか、と言われているんです。

「使う」となると、不安定だと使いにくいなどどうしても様々な制約がかかってくる。自然との共存も一つの制約だと思うんですね。ただその制約がマイナスじゃなくて深さに変えられるかどうかということが大切なんじゃないかと。

その人との関わりの深さを一番端的に表している例に、「千利休と長次郎の関係」と仰った評論家の方がおられて、千利休がこういうものを作れと言えば、長次郎はそれ以上のものを作る。それは、あれだけのお茶碗を長次郎が一人で作り上げたんじゃなくて、千利休とのかかわりの中で美意識が生まれ創り出されたもの。つまり使う人と作る人の関わりの中で、ものの価値が美意識が深くなっていったんじゃじゃないかと。

私自身も襲名してから、いろんな方からこんなものを作って欲しいというご依頼をたくさんいただくのですが、自分の想いだけで作っていると、どうしても自分の価値観だけになって先細りになってしまいます。逆にいろんな方との関わりの中で注文や宿題をいただいたりするなかで、自分の思いもよらない新しいものが生まれてくることが多々あるんです。そういう意味でも人との関わりの大切さってあると思いますね。

江戸期の色鍋島も、あの独特な造形の世界はきっと優秀な文様をデザインするデザイナーがいたと思うんですね。ただ優秀なデザイナーがいればできるかといえばそうじゃなくて、鍋島藩のお殿様の求める美意識の高さもあったと思います。

求める側の美意識と優秀なデザイナーと職人の技の高さ。この3つがぴたっと合わさったからこそ、あれだけの名品が生まれた。いくら優秀なデザイナーがいて優秀な職人がいても、求める人がいないと作れないし、いくらこんなものを作れといってもその技が無いと作れないですからね。

ブランドをどう考える
 
陶山: 今泉先生はブランドをどのように考えてらっしゃいますか。
今泉氏: ブランドをどう考えるかなんですけど、自分の仕事はブランドとは思っていないところがあるので。
陶山: そうですか(笑)
今泉氏: 毎日一生懸命、家の中で仕事をしていくだけのことで、「その姿勢がブランドなんですよ」と人から言われることはあるんですけど、ブランドというのは自分が求めるものじゃないとも思うんですね。

というのも、自分の作品で雪の結晶の作品があるのですが、雪の結晶の線を手で描いていくと、短かったり長かったり微妙な『ズレ』がでてくるんですね。この微妙なところが大切で、完璧に描こうと思いながらの微妙な『ズレ』こそが、手で書くことの大きな特徴かなと。ただ手で書けばいいとか、手作りだからいいということじゃないんです。手で書いて汚いなら機械のほうがいいわけで。ただ、手作りの良さがどうでるかが大切だとずっと思っていたんです。

それが去年の年末に陶芸協会で、佐賀の鹿島で染織の仕事をされている鈴田滋人さんに講演をお願いしたんです。その話のなかで染織には微妙なムラがでたりするが、それが『ゆらぎ』みたいですごくきれいだった。その『ゆらぎ』を求めていた頃があって、「ゆらぎの世界を求めると身を亡ぼす」と先輩から言われたことがあったと。

講演会後、鈴田さんに「先程のゆらぎの世界の話って深いですよね」と言うと、「あんたも『品格』とか『ズレ』とかいう話をするけど、危ないんだよ」と言われました(笑)。人間の手で作ることにおいて『ゆらぎ』も『ズレ』もすごく大切なものではある。しかしそこを求めて作るといやらしくなってしまい、それは求めるものではないと。

それは大正の終わり頃、思想家、柳宗悦が提唱した民藝も、作り手が民藝と思った瞬間からもう民藝じゃなくなると思うんです。それと一緒でそこを求めちゃいけないと。ある方に「ブランドも一緒なんですよ、ブランドは作ろうと思っても作れないですよ」と言われて(笑)。ただ人間ですから頭で考えるし意識してしまうところもあるけれど、そこを求めないというのはすごく難しいですね。
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色絵雪花墨色墨はじき果実草花文花瓶/径32.5cm 高28.3cm/2014年(今右衛門窯提供)
陶山: 求めつつ求めない。人様にどう思っていただけるかとか、自分の想いとまた違うところもありますね。
今泉氏: よくお客様から「今右衛門さんとこの焼物って磁器だけど柔らかいですね」と言われますが、これはうちの薪の窯だから出てくる独特の風合いなんですね。また研究者の人から「今右衛門さんとこ、まだ釉薬を手で混ぜているでしょう。手で混ぜると完全に混ざり切れないからこの雰囲気が出るんですね」と言われたこともあります。

この「薪で焼く」というのも、私自身が薪にこだわって始めたことじゃなくて、有田の技術変化の中で、燃料が薪から石炭・ガスに変わる段階で、父もその前の代も代々大切なものとして薪の窯を残しずっと変えなかったからこそ、今の風合いに繋がっているんだと思います。

以前アメリカの方に、アメリカでは親子で違う仕事をするのが当たり前なのに、なぜ同じ仕事を十四代も続けられるのですかと聞かれて考えた時に、やはり日本の「家社会」との関係があるんだと思うんですね。家が続くことを大切に考えるような、「家社会」には個人の人格を認めないといった弊害も確かにあります。家で仕事が続いているから仕事をさせてもらえる。良いことと悪いこととがごちゃごちゃになりながら続いてきた仕事なんだと思います。しかし、これからの時代のなかでどのように変わっていくかは判りませんね。
陶山: 家社会、もしくは社風といったDNAが受け継がれてきて、そこで、時代の変化や社会が求めるものに向き合いながら変えていく。アイデンティティやブランドのイノベーションと言われるものです。
今泉氏: それと、元々何の仕事から始まったかという違いもあると思います。今泉家のように赤絵師から始まった窯焚きさんと、轆轤師から始まった窯焚きさん、または庄屋さんから始まった窯焚きさんといろいろありますが、その始まり方で考え方や気質が微妙に違う感じはします。

海外展開への憂慮
 
陶山: 今泉先生は地域の活性化からインバウンド、海外展開などいろんな形でご尽力されていますが、今日の「withコロナ」時代のもとでの安全や安心、セルフケアや健康意識、信頼関係の重視など新しい生活様式も生まれています。今後、有田の未来について何か考えておられることがありますか。
今泉氏: 焼物、特に色鍋島というものは、すぐに見てわかるものではないので、好きになってくださるお客様とどう繋がるかなのですが、これからの時代、特に百貨店での個展がどのように変化していくのかを考えると、いろんな繋がり方の考え方にシフトしていかなくてはいけない。これは実は去年からずっと考えていたことで、今までとは違う時代に突入するだろうと想定していた中でのコロナ禍。ゆっくり変わると思っていたのが急遽そうなったという感じです。

ただ海外進出については、以前から少し疑問に思っていることはあります。日本の陶芸を世界の美術界にとよく言われますが、元々西洋で芸術というのは絵画と彫刻と建築。工芸は芸術の範疇に入っていないんです。さらに日本の土ものに対しても、海外のキュレーターから「なんでこんな汚いものを並べるんだ」という声が出てくることも少なくないんですね。日本の陶芸や工芸の文化性や芸術性がなかなか伝わりにくいところもあるんです。

そこにはやはり文化や考え方の違いが関係しています。お茶碗一つと城を交換するという感覚は、日本人には理解できますが西洋には伝わりにくい。それこそ日本の文化や考え方をきちんと伝えてから説明しないといけないんじゃないかという思いでいます。
陶山: 食と文化の関係を考える「ガストロノミー」という言葉がありますが、それと同様に、陶芸が海外にどう受け止められるかというのは、日本の歴史や文化を結びつけて伝える必要があるということですね。
今泉氏: そうですね 陶芸が好きという海外の方と繋がるというのは大切ですが、モノだけをそのまま持って行っても伝わるものじゃない。そこが陶芸の難しいところですね。

「続く」有田
 
山口: 先生は有田の中でも中心的な役割を担っておられますが、昨今の伝統産業の危機を乗り越えるために、窯元さん同士が連携するべきなのか、それとも競争しつつ残っていくべきなのか、どのようにお考えですか?
今泉氏: 本来、有田のような多様性が大切な町では、みんな一緒にというのはできないと思いますし、それは有田にとって良くないことと思います。しかし、今は若い陶芸家もいますし、グループで窯を持たれている数軒の窯元さんが連携されていることもありますね。まとまり方においても多様な方向性がある。それはすごく健全な状態だと思って見ています。でもそれを自分が引っ張っていくのは違うと思っています。

先の「柴田夫妻コレクション」の柴田さんからは「哀しいかな、今泉くんの時代じゃないんだよね。有田を本当に変えきるのは」って言われたことがあるんですね(笑)。それこそ20年くらい前でした。しかし「ああよかった、自分が変えろと言われたら大変だ」と思ったのを覚えています。次の世代への橋渡しならできるかもしれないなと。
西村: 先生にとって有田焼の一番の魅力というのは何だと思われますか。
今泉氏: 400年間有田で作ってきたものを人が喜んでそれにお金を出して使っていただいた、というのは事実ですから、それは、人が求める美しいものを造るという正論から始まって、さまざまな人の思いやいろんな思惑が絡み合いながらの400年だと思うんですね。きっとそれが有田の魅力であったと私は思います。
山口: 有田というときらびやかで絢爛豪華な美術品と、何百円の日用品と言われるものが、2万人という小ささな町の中で生み出されている。この振り幅の広さも有田らしさのような気がします。
今泉氏: そうだと思います。どちらも大切なものだと認め合っていますから。その振り幅の広さが日本人の気質と重なる部分もあって受け入れられ、これまで残ってきたんだろうなと思います。
西村: 有田の町をポートフォリオで考えると、売れ筋商品、育てていく商品、お金儲けの商品がバランスよく続けられているんですね。これは多くの窯があるからこそであって、これがもし窯が減ってきて例えば売れ筋商品だけになってしまうと続かない。これも有田の強さなのかなと思います。
今泉氏: 先ほどの中国との違いで言うと、中国の宋の時代というのは美意識がものすごく高いんですね。中国の古いもので本当の名品と言われるものとなると、日本のものとはランクが2つくらい違うんじゃないかと。

なぜそのようなものができるのかというと、中国の国の成り立ちにも関係していると思うんです。度重なる覇権争いによって民族ごと変わっていく。その、国の強さによって最高のものができる。

日本には、正倉院の宝物を虫干ししながら1000年保存し続けるという文化があります。これは西洋の美術品の保存とは異なった考え方で、まさに「続ける」ということを良しとする感覚が、日本人の気質の中にあるからじゃないかと思っているんです。

中国のように強い国ではないけれど、この「続ける」気質こそ日本の独特な感覚であり、世界に通用する日本という国のブランドじゃないかと私は思いますね。私自身、この独特の感覚を大切にしながら、日々仕事を続けていきたいと思っています。
陶山: 「時代に挑み伝統を守り続ける400年の有田焼」。江戸時代から続く色鍋島の伝統を、新たな発想を取り入れながら継いでいく。焼き物における「伝統と革新」も、お客様の感度、優秀なデザイナー、職人の技の高さ、さらに産地の持つ多様性と懐の深さ、消費地との流通のネットワークの中ではじめてなし得るのではないか。人と人の関係性の中で歴史と伝統のある有田焼、色鍋島のブランドも常に進化を遂げていく。「伝統は相続できない」を座右の銘にしてものづくりに励んでこられてきた「十四代 今泉今右衛門氏」の覚悟と矜持を垣間見ることができたような気がしました。本日は貴重なお話しをどうもありがとうございました。
(陶山神社にて)

(今回の取材は、新型コロナウイルス感染症の緊急事態宣言が解除された2020年8月下旬に行いました)
2020/12/26

ブランド対談 #20

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